辻村 学
執行役専務
2009年の(株)荏原総合研究所解散を機に始まった荏原式オープンイノベーションとは何か?10年目にして温故知新。過去を振り返り,現在を見直し,将来を俯瞰します。解散当時に感じた研究の2大危機とは①研究と製品開発の乖離と②低い研究効率でした。その後①研究目標を一旦「製品競争力改善」に定め,②研究効率刷新目的で年度研究廃止,研究陣は事業部と兼任で実施するというバーチャル研究所構想を立ち上げました。「小さく生んで大きく育てる」を基本概念とし,研究はまず3名で大学とのコラボレーションを開始,これがEOI。その後専任者ゼロで製品開発のための研究を実施するEOLを始め,新規事業創出のためのEIX,中小支援団体と協力して創出した研究を支援するサプライヤ組織がEOS,ここまでが現在です。「荏原式オープンイノベーション」はまだ道半ば,これからまだまだ進化します。
「イノベーションとは?」という問いに,私はいつも「イノベーションとは(技術革命)×(市場爆発)だ」と答えています。つまり,すばらしい革命技術であっても市場を席巻できなければ(企業の論理として)イノベーションとは呼べません。では次に「オープンイノベーション(以下OIと略す)とは?」との問いには,書物からの知識で以下のように答えるようにしています。OIは,2003年にチェスブロー教授による著書「OPEN INNOVATION」1)に端を発して大流行になりました。今年も種々の機関からOIに関する白書のようなものが沢山出ましたが,それによると,なかなか成功例を見ない(らしい)。
当社は2009年に(株)荏原総合研究所(以下総研)を一旦解散し,その後新しい手法としてOI的考え方を取り入れて再構築(新築?)を実施してきました。世間で定義されているOIとは多少異なるものの実際に成功しているので,これもまたOIの一つのケースとして捉えても良いと思います。最近このOIを研究若しくは推進する諸団体との交流が増え,当社独特の「荏原式OIとは何なのか?」を見直す機会を与えられました。本稿ではその経験を踏まえ,2009年総研解散後10年目にして「温故知新」,過去を振り返り,現在を見直し,将来を俯瞰してみたいと思います。
前述の著書「OPEN INNOVATION」1)で特徴的な説明図を図1に示します。
従来のクローズドイノベーションでは,研究は自前のみであり,その(種類)×(量)は制限されます。採用されるものは更に絞られ,マーケットに上市されるものはもともと自前でもっていた技術の中のほんの一部です。そのため上市される確率は高く,成功する確率は高いものの,イノベーションとしての(技術革命)の高さと(市場爆発)の程度はおのずと制限されてしまいます。一方,新しい概念であったOIでは,研究は広く外から求めるのでその(種類)×(量)は格段に増えます。研究段階で自社技術が外に出て他社技術と融合して新しい市場を創るケースもあれば,他社技術が自社に入り込み自社技術と融合して既存の市場で成功する場合もあります。というように,研究も開発も自社と他社という境界がなくなったように見えます。そのため(技術革命)の高さと潜在的な(市場爆発)は期待できても,自社技術のみならず他社技術も判断できる技術者がいないと,幅ばかり広がり成功には至らない場合が散見されるという結果のようです。
図1 OI概念<sup>1)</sup>
当社がかつて経験したOI例を紹介します。精密・電子事業カンパニーで2004年に作成した米国競合との開発プロセス比較を図2に示します。
これは当社が経験した半導体製造装置業界における開発プロセス例です。当社のような日本の製造装置メーカは,②市場情報・技術情報は①上流のユーザ,コンソーシアム,諸団体などから入ってきます。その情報を元に③開発コンセプトを決定し,④クーポンテスト,⑤試作機(α機),⑥評価機(β機)を経て,実際の⑦量産機(γ機)を販売するというプロセスを経ています。他方米国メーカは,情報源は同じく①ですが,Angel(支援者)に支えられた⑧各種ベンチャーが⑨α機を製作し売り込んできます。それを⑩買収し,⑪β機を経て⑫γ機というプロセスになることが多いです。ここで日本では③開発コンセプトを決定するための目利きが必要であり,米国では⑩ベンチャーを評価する目利きが必要となります。
日本の方法をクローズドイノベーションとすれば米国の方法は各種ベンチャーを利用したオープンイノベーションと区分けできます。当時,これらの違いを理解はしましたが,当社が米国と同様の方法を採ることはしませんでした。それでも対等以上に戦えてきたのは,上流からの情報が早く当社に届き,迅速な開発ができ,これを判断・目利きできるエンジニアが育っていたからと考えます。でも当時はOIを駆使して戦いを挑んでくる米国系の競合メーカに恐れのようなものを感じたのも事実です。
図2 日米開発プロセス比較
当社が初めてOIに取り組んだのは2009年です。当社は1912年創業で,総研は約50年の歴史がありましたが,2009年3月にその歴史を閉じました。解散当時に感じた研究の2大危機とは①研究と製品開発の乖離と②低い研究効率です。その後①研究目標を一旦「製品競争力改善」に定め,②研究効率刷新目的で年度研究廃止,研究陣は事業部と兼任で実施するというバーチャル研究所構想を立ち上げました。それが今日まで続く,荏原式のOIと定義しています。
では何故総研を解散までせざるを得なかったのか?再構築ではすまなかったのか?という疑問に答えるために当時の状況を精査してみたいと思います。そのツールとして「危機の方程式」を使います。
経営の「危機の方程式」とは,
(危機と感じたら)⇨再構築(破壊も)⇨成長戦略①グローバル化②多角化
と定義されます。つまり「経営を危機と感じたら①グローバル化若しくは②多角化などの成長戦略を描いて,その戦略にあった組織に再構築する」というものです。時には再構築では間に合わず「破壊=解散」も視野に入れること。
研究の「危機の方程式」も同じです。
(危機と感じたら)⇨再構築(破壊も)⇨成長戦略「製品競争力を高める」
と定義しました。
「危機」を前述の①研究と製品開発の乖離と②低い研究効率と定義,成長戦略は『製品競争力を高めるための研究』と『年度研究廃止で新しい効率の良い研究方式を生み出す』というものでした。結果として,それまでの組織は2009年に一旦「解散」,全員事業体に移りました。事業体では主として製品開発を担当したり,生産そのものに関与したり,様々な事業工程に関わることになりました。そして,2009年「ゼロ」から新たに研究所(体制)を創り直しとしました。
正に「ゼロからの出発」,それが荏原式オープンイノベーションの始まりでした。
図3に(EOI-EOL-EIX-EOS)の流れを示します。
図3 荏原式OIの生い立ちと関連図
2009年3月に研究所を解散したのですから,研究員も予算も正に「ゼロからのスタート」です。最初の一年間はそれまでの研究所の整理と新研究所の構想作りに費やしました。2年目に,まずはわずか3名のエンジニアだけで研究を開始しました。3名しかいないのですから当然頼るのは外部団体,つまり大学です。荏原が得意とする,特にこの3名が得意とする分野の大学とコラボを開始しました。人はいないが研究の種と基本技術を荏原がもち,大学はそれを新しいテーマとして取り組み,学生などを指導しながら研究をするという,企業と大学の新しい概念のコラボです。今では30以上の大学,50以上の研究室,約150名の研究人員が関わっているほどに育ちました。基本技術を荏原がもっているというところと,それを解決する柔軟な解析力を大学がもっているという点を特徴として「荏原式」のOI,EOI(Ebara Open Innovation)と名付けました。
EOIを進めながら,荏原社員による開発も始まりました。と言っても研究所人員を増やしたわけではありません。事業体が「製品開発に必要な開発・研究テーマをもって」「研究員を兼任で出し」「EOIメンバと協力し実施し」「終了したら事業体にもって帰る」という手法で,これをEOL(Ebara Open Laboratory)名付けました。そして年度研究ではありません。3日で終えても,3年かかっても構いません。これで研究効率は抜群に上がりました。
EOI・EOLが軌道に乗ってきた頃,新規事業を創生する仕組みも作りました。新しい未知なるもの‘X’を生み出すためのイノベーション。それがEIX(Ebara Innovation for ‘X’)です。ここでも「小さく生んで大きく育てる」という基本概念が生きています。EIX創生期としては一つのルールを作りました。
「世の中で流行っている新技術を全部リストにして見よう。そしてその技術が当社にとってどういう意味をもつかを再定義する」です。
例として「IoTとロボット」を取り上げて見ました。IoTもロボットも既に陳腐化するくらい大流行(?)のテーマです。それでも当社にとっては真新しいもの。そこで,この技術が「生産技術革新に役立つもの」として再定義しました。生産技術グループでまずは小さく検討しました。その後このアイデアはE-Plan2019(当社の中期経営計画)にも掲載された「自動化工場」という大きなテーマに育ちました。このようにEIXでは種々の流行の技術を「当社としてどのように役立たせるか」というルールで開始しました。もちろん,自社独自で最先端の新規事業を創生する役目も担っていますので更に努力して行きます。
EOIやEOLの成功例はこの後で紹介しますが,2008年度の総研を100として,2016年度の相対評価は以下の式で示しました。
①研究費と社内人工が50%以下で,②研究テーマ数は150 %超え,社内への技術移転と社外発表は200 %超え,③社外人工と共同研究テーマは250 %超え,④研究としての特許出願は450 %超えです。研究投資効率は圧倒的に改善できました。
最後にEOS(Ebara Open for Supplier)です。ここまでEOI,EOLそしてEIXが育ってくると,実際に開発品を製造する団体が必要になります。当社は「製作所」と言っていますが,大型の特殊加工機械は自前でもっていても,研究で作るような小型で特殊なものを加工する機械はもっていません。通常は外注します。ここからが課題です。研究でも開発でも,その新製品の加工方法から理解しなければ良い研究・良い開発はできないという持論を(私は)もっています。図4を参照してください。研究は今は「ガレージ並み」の場所ですが,本社からIT設備(TV会議など)で主導しています。各工場,各大学,各サプライヤを繋げて,正に「バーチャル組織」を形成しています。このように,EOSは正に当社が現在もっていない工場設備をバーチャルに創り上げるというシステムです。
図4 EOSで夢見るバーチャル工場
知財・技術研究統括では「BRDIP(Business, R&D and IP)+ABA(Association, Business and Academy)」というキャッチコピーを掲げて活動しています。
BRDIP(ブルディップと読む)とは,事業・研究・知財の三位一体のことで,ABAとは事業・工業団体・学会の相互貢献のことです。工業団体・学会には進んで協力し多大な貢献をしますが,工業団体からは団体としてまとめた貴重な資料を自社内で活用させていただくこと,学会では技術力をアピールしたりして企業価値を上げることを対価として見るようにしました。これらは当たり前のことのようですが,何のために研究者は・知財はあるのかということを再度認識する意味で,キャッチコピーを作り何度も何度も繰り返し唱えることにより,関係者に理解してもらうようにしました。
ここまで研究所を解散した過去の経緯,その後の荏原式OIが生まれた経緯と現状を説明してきました。10年を振り却って見ると荏原式OIはその形成プロセスに必然と偶然が重なり,関係各位の不断の努力により出来上がってきたことが再認識できました。ここまでが過去と現在です。さて,それでは将来は?
既にいろいろな新しい仕掛けが動き出しています。EOI−EOL−EIX−EOSに続く仕掛けはNIHとEHUです。当社に無い技術を持っている会社とのコラボがNIH(Not Invented Here),EOI・EOLメンバ主体での荏原型大学を創設するEHU(Ebara Hi-tech University)です。
更にEOIは別の形でも進化し始めています。それを新EOI(Enhanced Open Innovation)と名付けました。本稿では名前だけの紹介に留め,内容については次回への期待とさせてください。「荏原式オープンイノベーション」はまだ道半ば,これからまだまだ進化し続けます。私自身もその進化を見届けるのが楽しみです。
1) Henry Chesbrough著,大前恵一朗訳OPEN INNOVATION−ハーバード流イノベーション戦略のすべて,産業能率大学出版部,pp.6,8(2004).
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