松本 久男
執行役員
風水力機械カンパニー 標準ポンプ事業統括
藤沢工場長
「見識」という語句があります。大辞泉によれば「物事を深く見通し,その本質を捉える優れた判断力,確かな考え」と記されています。藤沢工場の50年を振り返る時,私は工場建設当時の関係者が折々に示した見識に畏敬の念を禁じ得ません。荏原ブランドの優位性を決定付けたベストセラー機/S・MS・LPD型の開発,標準ポンプの量販を可能にした販売・サービス網の構築と並んで,半世紀も前に建設された供給基地が,生産品目や生産方式は変容しながらも原型を保ちつつ,国内トップシェアの戦略成功要因であり続けているのは驚嘆に値すると思います。
そもそも,藤沢工場の用地買収は,藤沢市による旧藤沢飛行場跡地4.2万坪の工場誘致に端を発します。1959年のことです。その三年後には難航した隣接地の買収を含め,17.5万坪(約60万m2)の購入が完了しました。協力会社9社もこれと軌を一にして,敷地周辺の2.2万坪を買収しています。
1965年の7月にはポンプ工場が竣工し,陸上ポンプS型の生産が始まりました。平均年齢23歳の従業員総勢131名による船出でした。
特筆すべきは,工場が当代随一と呼ぶに相応しい威容と共に,自主技術がふんだんに折り込まれた最先端の設備を誇っていた点です。稼働当初の工場内覧後,競合企業の幹部が舌を巻いて自社の工場建設を見合わせ,有力代理店のトップが他メーカーからの全面切り換えを即断したなどといったエピソードが人口に膾炙し,当時の工場スタッフには意気軒昂たる誇りと自信が漲っていたことが窺えます。操業開始のタイミングは,折しも東京オリンピック景気の反動で「昭和40年不況」の真っ只中にあり,先行きを危ぶむ声も少なからずありましたが,大胆不敵にも計画は続行されます。幸い不況はほどなく収束。以降は,本格的な都市化の波が到来し,需要拡大の中で機種の拡充を伴って年間53万台でピークを迎える1992年まで,生産台数は概ね右肩上がりで拡大します。そして,今日までに累計約1700万台以上のポンプを世に送り出すに至るのです。
とは言え,ここまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。1970年代のオイルショック,1980年代の円高不況,1990年のバブル崩壊,21世紀に入ってからはリーマンショック等々,景気の変調に起因する業績不振に遭遇し,その都度,営業拠点の拡大と数次に亘る工場からの人員シフト,川崎工場の売却と藤沢への統合,高付加価値製品の投入,水処理や家庭,土木等の新分野への挑戦等によって危機を乗り切ってきました。そして,2000年のダイオキシン問題という未曽有の蹉跌。それらの教訓と共に,業績回復と失墜した社会的信用の回復のために払われた諸先輩による獅子奮迅の働きを,私たちは片時も忘れてはならないと思います。
さて,成熟化した国内市場に軸足を置く藤沢工場の今後のあるべき姿とは,どのようなものでしょうか。その答えは,「真のマザー工場であること」に尽きます。
この命題はグローバリゼーションに持続的成長の活路を求める標準ポンプ事業に於いて,藤沢工場の使命とも換言できます。これを全うするには,世界に誇れるだけの生産システムと生産技術力,品質管理システムを備え,高度な生産性を自ら体現する模範的な工場であることが必要条件となる筈です。果たして,今日の藤沢工場は,それに値するだけの力量を持ち合わせているでしょうか。もしも答えに窮するのなら,今こそ自己の能力を謙虚に見つめ直し,キャッチアップのための行動を開始すべきです。できるだけ,早く!。とりわけ目先の利を優先する余り,期せずして空洞化を免れることができなかった技術や劣化を招いた諸システムのスクラップ&ビルドは,焦眉の急です。そして,時代の最先端に躍り出るまで,地道にブラシュアップを重ねなければなりません。
そうしてこそ,藤沢工場の「輝かしい明日」への展望が開けてくるのだと思います。
藤沢工場ものづくり50年の歴史
1966年頃の藤沢工場
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