掲載号: No. 256〔巻頭言〕

ひらめき考

執筆者

吉田 俊哉

博士(工学)
東京電機大学 工学部 電気電子工学科 教授

歴史あるエバラ時報の巻頭言の著者はそうそうたる顔ぶれであり,文章は言うまでもなく格調が高い。執筆のお話を頂いた際には大いに躊躇したが,このような機会を頂けたことは誠に光栄であり,またとない機会でもあることから思うままに書かせて頂くことにした。

筆者は一つのことをじっくり考え深堀する研究スタイルを苦手としている。ひらめきだけで生きている感があり,短時間でアイデアが出ない場合はテーマ設定から再考してしまう傾向がある。大学人としても異質であるが,これでは企業で使い物にならない。そんな人間がEOI (Ebara Open Innovation)で共同研究させて頂いているのだから,相当なご迷惑をおかけしているに違いない。しかしながら発明心は持ち合わせているつもりで,発明力,発想力,特に「ひらめき」について学生に教育できないものかと常日頃思い悩んでいる。

学生についつい「考えなさい」と言いたくなることがあるが,命令形のこの言葉は機能しない。そう言って問題が解決したためしがないし,そう言われなくても学生自身はすでに何かを考えている。この言葉を発してしまったとき,おそらく「考えの方向を改めよ」や「めんどうくさがらずにやってみよ」の意味で喋っていると自己分析している。「自分と同じ方向で考えろ」と,わがままを言っているだけの場合もありそうだ。では「ひらめきなさい」と言ったらどうか。直感的にもおかしな日本語であるし言葉としてもやはり機能しない。

そもそもオンデマンドでひらめくことができたら苦労はしない。努力の中にひらめきの種が存在しているのかもしれないが,努力したからと言ってひらめくわけでもないし,努力しなくてもひらめきは突然やってくる。そして,ひらめきやすい人とそうでない人がいることは認めざるを得ない。また,ひらめきやすい人はそう多くはない。筆者は学生にひらめきやすい人になって欲しいと切に思っており,いろいろと工夫しているつもりでいるが,その効果はかなり限定的である。これまでに沢山のことを真面目に学んできた学生たちの多くは,あらゆる場面で「正解」を探す行動に専念する。ひらめきを自制してしまっているようにも見える。正解以外は否定され続け,ひらめきの芽を摘み取られてしまっているようにも思えてしまう。ひらめきは能力というより個性である。個性を摘み取られたとしたら残念なことだ。ただし正解を探すという行動は問題解決のための正攻法の一つであり否定されるものではない。ひらめきと違って立派な能力だ。組織の中で大勢がひらめいて,ひらめきが組織を牛耳ったら恐ろしい限りだ。

適度なひらめきがなければ進化が止まる。突然変異と同じである。よって,ひらめきやすい人は少数派でよい。しかし,ひらめきを尊重する環境がなければ少数派は絶滅に向かう。近年はイノベーションと騒ぎ立てる一方でひらめきを尊重する環境が危険にさらされているように思える。ひらめきが埋没する環境になっていないか,ひらめいた人が損をする環境になっていないか,ひらめく余裕を与えているかなどの観点で再整備が必要ではないかと考える。ひらめきは多様な個性の一つなのだから教育で何とかしようとすること自体がおこがましいのかもしれない。環境改善に専念すべきなのかもしれない。

“1 percent inspiration”が革新の源で,これはAIには真似できない。個人のひらめきがconnectedな世界で共有され,世界中の人々とAIが“99 percent perspiration”を実現する時代である。組織はひらめきの周りに動的に形成される。組織が存続するためには,どれだけopenになってもこの1 %だけはclosedでなければならないと考える。時代が変わっても,ひらめきは人をわくわくさせる。「ひらめき」を再認識してみてはどうだろうか。

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